id:macaca(バカ)が無意味な長文を書き散らすのは、内心の動揺の反映なんだろうが・・・

自分の誤りを認められないバカid:macacaが墓穴を掘っている。こっちがひとつ突っ込むたびに、10個ぐらい墓穴を掘ってるから、バカの論理は破綻しまくりである。

「αという団体の行為に対する批判は、βに適用できるか」はこの場合「文脈」ではなく議論の主題である

これの意味を理解するのは、まともな神経の人には困難である。バカは自分の好きなように日本語を定義することがお好きなようだが、一般の辞書の意味では、文脈とは、

(1)文における個々の語または個々の文の間の論理的な関係・続き具合。文の脈絡。コンテクスト。

議論の主題を除外して論理的な関係が理解できるわけない。まともな神経の人間にとって『それは主題であって文脈ではない』、と言い張るような頭の悪いキチガイの言葉は普通なら面食らう。主題であり文脈であるのだ。
一方彼は、議論の文脈をどう解釈するかは、「創価学会の悪行」の悪行の部分にかかっている。と書いている。ここまでくると憫笑するしかない。バカは

創価学会」と「日蓮本山」とをひとくくりにすることが不当かどうかはひとえに議論の文脈や抽象化の水準による

と書いているのであって

1「α日蓮宗とβ創価学会をいっしょにして」、2「β創価の悪行を例に出して、α日蓮本山を叩くのと同じようなものでしょう』

という元のこちらの文章とはすでに意味が違っている。こっちの文章は
町山氏の文章は1『αとβをいっしょにして』2『βとαを叩くようなもの』でプロパガンダだといってるのである。
『αとβをひとくくり(いっしょ)にすることが不当かどうか』という文章はバカの主張である。だからバカの

創価学会」と「日蓮本山」とをひとくくりにすることが不当かどうかはひとえに議論の文脈や抽象化の水準による

の文章における『議論の文脈』はバカの文章の前についている、こちらの議論の前提条件すべてに適用される。しかしバカは自分にとって都合の悪い、2の文章の「αという団体の行為に対する批判は、βに適用できない」というこちらの主張は、それは文脈とは関係ない、と退けておいて、同じ2の文章中にある『創価の悪行』の部分をどう解釈するかだけにかかると主張。バカの強弁もここまでいくとある意味尊敬に値する。*1

*1:当然厚顔無恥もきわまれりという意味で