科学哲学の基礎も知らないポモヲタにとって抽象化というのは自分の牽強付会の理論に沿う、都合のいい点だけを抜き出す作業だということを示す典型例
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ある理論にとって最適な一般化(抽象化)の水準がその理論の目的によって変わるというのは別にポストモダン的レトリックではなく、オーソドックスな自然科学の内部ですらあたりまえのことに過ぎない。
頭の悪いポモにはどうしても理解できないかもしれないが、抽象化というのは自分の議論の都合のいいように、議論の水準を置くことではない。
『創価学会という団体が悪事を働いたときに、日蓮正宗を批判することは正しいか否か。』
このときの議論の水準は何かなどということは、よほど頭が悪くない限り、すぐに理解できるはずである。それがコモンセンスにゆだねられることもわからない時点で、彼は自分は馬鹿ですと宣言しているようなものである。*1
「漏れのすんでいる世界では、創価学会批判が、日蓮正宗批判に結びつくことは、少なくとも創価学会の日蓮正宗脱会以降はまったくありえない」というのは、要するに「漏れのすんでいる世界」の狭さを自ら誇っているようなものなので、あえてコメントするまでもなかろう。
あえてコメントできないのではなく、反証例を出すことができないのであろう(藁